mariko kaga
KAZUHIRO FUJITA
加賀まりこ 1943年生まれ、東京都出身。
「世間体はなにも生まない。そんなものにこだわって生きるな」と母にしょっちゅう言われました

「私はずっと生まれた環境に逆らっていない。なんでも面白がってきた。覚悟をもって生きてきたから、自分に起こることは全部引き受けます」と加賀まりこさんは言う。加賀さんは東京・神田生まれ。神楽坂で子ども時代を過ごした。父親は映画会社大映のプロデューサー、姉は文化放送に勤め、兄は松竹のプロデューサー、母は生粋の江戸っ子だ。

「私は大人の中に子どもひとりで育ったのよね。姉も兄も10歳以上離れているから、自分たちの青春で精いっぱいで、私の面倒は見ない。母も私にかまわないから、いやが応でも自立するよね。神楽坂に引っ越して、神田の小学校から帰る途中、神保町の古本屋で夕方5時を過ぎても立ち読みしてた。母が毎日くれる100円を握って、帰りのタクシーに使うか、電車にするか、買い食いをするか、自分で決めてたからね」

自己プロデュースするのは、小学生から今まで変わらない。「母は、『世間体はなにも生まない。そんなものにこだわって生きるんじゃないよ』としょっちゅう言っていました。」そんな環境で育ったから、子どもの頃から自立していたのだ。

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KAZUHIRO FUJITA
20歳で単身渡仏。今日の幸せに目を向ける

高校在学中の17歳のときに映画監督の篠田正浩さんと劇作家の寺山修司さんにスカウトされ、『涙を、獅子のたて髪に』で映画に初出演。主演映画『月曜日のユカ』('64年)で注目を浴びる。

「'64年の東京オリンピックのとき、高度経済成長でみんな上昇志向だったから、私は息苦しくて日本を出たかった。俳優を辞めてもいいと思って、20歳でパリに行ったの。フランス人は上ばかり見ている人をバカにしていて、大事なのは、今日誰と食事をするか、誰とセックスするか。とにかく今日を大事にする。それにすごくホッとしたのよね。その後、劇団四季の浅利慶太さんから舞台『オンディーヌ』に出ませんかって電話がかかってきて、舞台をやってみようと思ったの。で、帰国。劇団四季の研究生になって発声から勉強して。自分が下手なのが、ほかの人の足を引っ張ってるんじゃないかって気になって。本気で女優業に向き合うようになりました」

舞台が失敗してもまだ20代、転職すればいい、と思っていたけれど、大好評でロングラン。30代は映画『泥の河』、演劇は「南北恋物語」。40代は母親役をやり始め、連続テレビ小説『澪つくし』、映画『麻雀放浪記』などに出演。50代は連続テレビ小説『私の青空』出演や、真田広之さんと「ハムレット」でロンドン公演。60代はテレビドラマ『花より男子』などに出演し、70代で映画『梅切らぬバカ』で主演。どの年代でも自分の財産になる作品に出演してきた。

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誰かと比べるな。それは時間の無駄

「私の人生の幸福度のカーブは、生まれたときから今まで、ずっと上昇ラインだと思います。下がったのは49歳からの更年期。急に太りだすし、汗をかくし。更年期は恋愛するのも嫌になるの。そのトンネルを5年で抜けて、バッタリ彼に会ったのが55歳」

パートナーはドラマ『男女7人夏物語』('86年)などで仕事をしていた相手で、麻雀仲間でもあったが、久しぶりの再会だったそう。「彼にあらゆる手管を使っても知らんぷりされて(笑)、付き合うようになるまで5年ぐらい待ったの。私はノックし続けて。今までで一番いい人を引き当てたとみんなに言われます(笑)。恋愛も仕事も待ってちゃ進まないからね」

何事にもポジティブで、やりたいこと、知りたいことは我慢しない。最後に、よく生きるための心構えを聞いた。「まずは誰かと比べるな。それは時間の無駄。あとは自分で見つけな。苦労しろ!(笑)。痛いことにぶち当たらないと、痛いというのがなんだかわからないまま死んじゃうことになるでしょ」